【K/note #2】三代続く大工の息子が、デザイン事務所をはじめるまで。
こんにちは、Kubo Design Studioの久保哲也です。ウェブサイトがオープンし、これから「K/note」を通じて私たちの活動を発信していきます。
今回はその第2回。
私がどんな経緯でデザイナーになり、今、どのようなスタンスでモノづくりに向き合っているのか。その原点についてお話ししたいと思います。
削り節の香りと、表現への初期衝動
私の原点は、三代続く大工の家系でした。 自宅の作業小屋からは、父が柱に墨付けをし、カンナをかける音が響いてくる。辺りには削りたての木の香りが立ち込め、足元には丸まったカンナくず。私はその端材を拾い集めては、何時間も「何か」を作ることに没頭していました。
同時に、広告の裏紙に夢中で絵を描く子供でもありました。「上手だね」と大人に褒められたあの単純な嬉しさが、今の私のクリエイティブを支える最初のガソリンだったのだと思います。
挫折の先にあった「立体」への道
高校2年、テレビで「メカニックデザイナー」という職業を知り、衝撃を受けました。架空のメカを、その世界の設定に基づき緻密に設計する仕事。
「これだ!」と美大受験を決意したものの、現実は甘くありません。有名美大はことごとく不合格。受験シーズンも終盤にかかり、受けられる大学も限られてきたころ、デッサンを指導くれていた先生が言いました。
「君のデッサンは立体向きだ。プロダクトデザインを受けてみたら?」
その一言が、閉ざされかけた扉をこじ開けてくれました(もっと早く言ってよとは思いましたが・・・)。ろくに調べもせず飛び込んだプロダクトデザインの世界でしたが、結果として、私は「実用的な美しさ」を追求する面白さにどっぷりと浸かることになります。
「10年、20年先」を見据える。現場で学んだ設計思想
就職氷河期を越えて入社したインテリア・金物メーカーでは、容赦ない「実務」の洗礼を受けました。
1年目は、亜鉛ダイキャストや金属加工と格闘しながら、ドアハンドルや引手のデザインを担当。 2年目には、店舗什器の分野で、プラスチックの射出成形、ブロー成形、押出成形、さらには金属の溶接技術まで、モノづくりの基礎を学びました。
特に印象深いのは、スーパーなどの「実演販売台」のデザインです。 当時は白やアイボリーが主流でしたが、私はあえて「黒」をベースにしたスチールフレームとステンレス天板の仕様を提案しました。汚れや経年劣化をカバーし、10年、20年と使い続けられる「道具」としての強さを優先したのです。 20年以上経った今も、その製品が当時の姿のまま販売されています。
この経験が、「一過性の流行ではない、長く愛されるデザインを」という今の私の信念を形作っています。
北京の空の下、私を助けたのは「図面」だった
2005年、大きな転機が訪れます。オリンピックを控えた北京への赴任です。 中国語ゼロ、スーツケース一つで飛び込んだ現場。スタッフや工場の職人との意思疎通すらままならない私を救ったのは、他でもない「図面」でした。図面は、図と数字と記号による世界共通の言語。 精緻な図面とスケッチさえあれば、国境を超えて対話ができる。自分の意図を完璧に詰め込み、誤解の余地をなくすことで、あとは片言の中国語でもなんとかコミュニケーションをとることが出来ました。
「日本語でコミュニケーションできるからこそ起こる、小さなミスコミュニケーションを未然に防ぐ」
今の私が、日本語の通じる国内案件でも「図面の精度」にこだわるのは、言葉の通じない北京で、図面の持つ「誠実さ」を身をもって知ったからです。 その後、一度日本へ戻り、本社の刷新されたルールの中で商品企画の全工程を再確認する日々を過ごしました。そして再び、辞令が下ります。次なる舞台は、アジアのビジネスの心臓部・上海。 結婚という人生の節目と重なり、妻も共に海を渡ってくれることになりました。

上海で知った、「作る」の先にある責任
2011年、新生活の始まりとともに上海へ。 北京が「政治の中心」なら、上海は圧倒的な「ビジネスの中心」です。ここで課せられたのは、日本向けの製品を広大な中国各地の文化・風習に合わせて「ローカライズ」するミッションでした。
広大な中国は、エリアごとに驚くほど文化が異なります。上海拠点はアジア事業の本部でもあったため、視線は常に東南アジアまで注がれていました。 ここで経験した仕事は、プロダクトデザインの枠を大きく超えるものでした。
新商品の企画・設計はもちろん、ショールームの構築、カタログやWEBの制作、展示会ブースのディレクション……。さらには営業に同行して商談に臨み、現場での設置工事や、時には厳しいクレーム対応やメンテナンスまで。 「モノを作って終わりではない。売って、使ってもらって、長く愛されて初めてデザインは完結する」 この一連のサイクルを肌で感じた4年間は、私のデザイナーとしての背骨をより太く、たくましいものにしてくれました。
2015年、福岡での始動
あらゆる現場を駆け抜けてきた私は、35歳になっていました。 「これまでの全経験を注ぎ込んで、自分にしかできない挑戦をしたい」 その想いと、同じくグラフィックデザイナーとして活動していた妻の存在。二人の意志が重なり、2015年、私たちは故郷である九州・福岡で「Kubo Design Studio」をスタートさせました。
大工の家系に流れる、モノを形にする「手」。 メーカーで培った「量産と品質」の知識。 海外の最前線で磨いた「言葉を超えた図面」。 私たちが歩んできたすべての道は、今、ここ福岡・糸島でのモノづくりに繋がっています。
だいぶ長くなってしまいましたが、これが私の、そして私たちのプロローグです。
次回からは、現在進行形のプロジェクトや、私たちが大切にしている「モノの見方」について少しずつ綴っていこうと思います。
(文/久保哲也)
